「田んぼの忘れもの」著者紹介より

1950年長崎県島原生まれ。
1973年より福岡県農業改良普及員になり、現在にいたる。
1978年より減農薬運動を提唱。
1989年より二丈町に移住し兼業農家になる。
現在、福岡地域農業改良普及センター勤務。
著書
『減農薬のイネつくり』    (農文協)
『田の虫図鑑』     (農文協:共著)
『地域が動きだすとき』(農文協:共著)
『除草剤を使わないイネつくり』
              (農文協:共著)
 宇根豊 著 「田んぼの忘れもの」
 (有)葦書房 発行
 福岡市中央区赤坂 3−1−2
 Tel:092−761−2895

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1996年7月25日発行:
宇根豊 著 「田んぼの忘れもの」より抜粋


V 赤米・画一化を拒否する稲


  赤米復興の意味、そのしたたかさ

既に「あかまい(赤米)」を知っている人はほとんどいないだろう。文字どおり、赤い色の米だ。炊いたら、「アズキご飯」の色になる。かつて、この国の米はほとんど「赤米」だったと言ったら信じてもらえるだろうか。
 とうとうこの国の米も、輸入自由化への一歩を踏み出したが、あくまでも自給でいくべきだという意見も決して少数ではない。他のほとんどの農産物が、輸入を自由化され、そのために国内生産は急速にしぼんでいっているなかで、なぜ米だけこんなに議論の的になるのか、ちょっと異常な気がする。しかし、よくも悪くも「米」はやはり特殊な存在なのだ。「聖域」なのだ。ところが、この聖域からも排除された米がある。それが「赤米」だ。赤米を通してこの「聖域」を見つめてみると、面白いことがわかってくる。

  
赤米輸入

 1992年のこと、太宰府や、篠栗の48筒所巡りに出かけると、門前で「赤米」が売られている。どうも変だと思っていたら、中国からの密輸入米ということが発覚した。しかし、それを非難する前に、考えたいことがある。赤米はこの国では見事に、排斥されてきた。いま全国どこにいってもお目にかかることはほとんどない。ところが、アジアではどこの国でも、赤米は今日でも根強く栽培され続けている。それなのになぜ、日本の百姓は赤米の栽培を捨ててしまったのだろうか。一方ではその赤米を、中国から密輸入してまで販売しょうとする業者もいて、それを買う日本人もいるのに。
赤米を通して、いまの稲作を見ると、いびつで独善的なこの国の「お上」の米政策が浮かび上がってくる。その「お上」を容認するどころか、むしろ積極的に支えざるを得なかったこの国の国民の悲しさもよく見えてくる。

  
赤米の過去

まさか、赤米にそんなに深い過去があったなんて、知らなかった。どんどん赤米にのめり込んでいく自分に、果たしてそれを引き受けて、担って歩いていく覚悟と、能力があるのだろうかといつも自問している。たぶんまちがいなく、今後赤米の栽培はひろがるだろう。そうなると「白い米」ではない、というだけで、いろいろな場面で圧力をかけられるのは必至だ。しかし、それでいい。「白い米」に言い寄る必要はない。100年間以上も弾圧された米だ。復活のために、もっともっと、百姓は、消費者は感性をとぎすまさなければならないのだ。もうあとには退けない。あまりにも魅力的な世界に触れてしまったから。あまりにも先人の多くの苦労を知ってしまったから。
 ある百姓が忠告してくれた。「宇根さん、赤米なんて珍しいものとしてつくるならともかく、日常生活での復活は無理ばい。だって、いまは農家ですら、モチ米を買って食べよるんだから」。だからこそ、国民が失い、今また百姓すら失おうとしている世界を取り戻したいと思う。ほくは赤米を「珍しい米」という狭い枠に押し込め、「特産品」にするだけの運動にはしたくない。なぜなら、かつてこの九州ではほとんどの集落で、赤米はつくられ、ぼくたちの先祖は皆日常に食べていたからだ。それもつい、40年前までは、まだ残っていたのだから。ぼくは赤米を栽培しながら、赤米が根だやしにされたこの40年間に、米はその本来のパワーを失ってしまったということが、実によくわかった。その正体は、赤米を拒絶するぼくたちの心性に宿っていると言っていい。

  
赤米は米ではない

 赤米には「検査基準」がない。出荷しても、「規格外」だ。つまり「米」扱いされない。なぜなら、検査基準は「お上の米」のために定められているからだ。いまでも赤米はそういう意味で、出荷してはいけない禁断の稲にされている。「白いコメ」への統一は、明治時代以降強力にすすめられた。そしていま、その仕上げ期にある。いま全国どこでも、コシヒカリとその血が入った品種が「うまい米」だともてはやされている。同じ血筋に統一されようとしている。
 でも、少し頭を冷やして考えてみるといい。現在、地球規模で、飢餓とエネルギー危機と環境悪化が進行している。農業は比較的「環境にやさしい産業」だと言われているが、こんなに農薬・化学肥料・エネルギーをたっぶり使わなければ成り立たないような稲作では、とても「環境にやさしい」などとは言えない(だからこそ、減農薬運動を提起し、成果も上がっているのだが)。航空防除・共同防除に象徴されるような地域性まで無視し、百姓の個性も発揮できない稲作が、21世紀に続けられるはずがない(航空防除は害虫や病気が発生しようがしまいが、前年にヘリコプターの都合で散布日が決定される実に馬鹿げた技術であることは前に述べた)。
 「普通の米に、赤米が混じったら、大変なことになる」「こぼれた赤米の籾が翌年、生えてきたら雑草化する」などという批判が、一見まともに見えるのは、現在の国家による管理をよしとする稲作、食物としてより商品としてみる価値観に感化されてしまっているからだ。赤い米が混ざっているからといって食べられないことはない。くりかえすようだが「赤米」は長い間米として認められて来なかった事実を直視するところから始めたい。

  
赤米の価値

 ところで、なぜつい先頃まで、九州の山間地や島々の水田に赤米は残り、根強くつくり続けられたのだろうか。何よりそれは、自給のために栽培されたから、国家の統制が及ばなかったためではないだろうか。自分がつくって食べるものに、人からとやかく指図される必要はないからだ。いまでは10キロ5000円の米、いや6000円の米、といって米の価値をお金で評価する時代だが、つい先頃まで、米が商品化をまぬがれ、食べ物として存在できた時代と地域があったのだ。そしてよく考えてみると、そういう離島や山間地の赤米地帯ではどうも米は「主食」でなかったようなのだ。それは貧しかったという意味ではなく、食べ物が多様性に富んでいたと解釈すべきなのだろう。
 そこで日頃の疑問をぶちまけるのだが、果たして米は日本人の「主食」だったのだろうか。米の自給達成はつい20数年前であったことでもわかるように、稲作2400年の歴史のなかで、米だけを穀物として食べていた時代はない。現代でもそうだ。まして戦前はどの地域でも、雑穀や芋類を相当「主食」として食べていたのだ。米は、つくっても「お上」にとりあげられていたということも理由の一つだ。
 どうも、米を「主食」にせねばならなかったのは「お上」だけだったのではないだろうか。なぜなら、年貢として「米」が銭以上に必要だったからだ。つまり「米」は税そのものだった(蛇足だが江戸時代、米を年貢として納めることのできる人間だけが「百姓」と呼ばれた。「百姓」という言葉は年貢という義務をはたし終え、誰にも従属しない存在だ、という誇り高い言葉でもあったのだ)。だから「米」は国を治める道具として、このうえない貴重なものだった。だからこそ、そうした権力から離れたところで、自給用の赤米が自分達の食べ物の一つとして栽培されてきたことの意味の探さに、思いを馳せてみたい。
 また忘れてはならないのは、そうした山間地や島々の、地の痩せた田や、湿田や冷たい水がかかる田、あるいは水さえもままならぬ天水田など、不良環境下の水田では、赤米の方が「白い米」より、よくでき、よくとれたことも、根強くつくり続けられた理由の一つだったと思う。ぼくのうちの田んぼは、水をためても一日で干上がってしまうような俗に言う「ザル田」で、「白い米」 の品種は一反に玄米で6俵(360キロ)もとれないのだが、赤米は6俵はとれる。その成長の力強さ、たくましさは現在の稲が失ってしまったものだ。まして将来、農薬・化学肥料が制限される時代になれば、なおその生命力の旺盛さは輝きを増すにちがいない。

  
赤米の風景

 ある日、友人の松崎治磨さん、吉住公洋さんの田んぼを目指して車を運転していた。500メートルほど近くになって、それとおぼしき田んぼの方を見て「アッ」と声を上げてしまった。落ちていく夕日の手前で、二人の赤米田は、秋だというのにレンゲ畑かと見まごうばかりに、真っ赤に燃えて広がっていた。ほんとうに驚きだった。穂が出てから半月の間、こんなに心ときめく風景がつづく。かつてはこの国のすべての水田をこうした艶やかな光景が埋めていたと思うと、今の水田はずいぶんと殺風景になったものだ、と思う。
 強引に決めつけさせてもらえば、村から赤米の赤い色が消えていったから、赤トンボが田んぼで生まれていることに無頓着な近代技術が横行するようになったのではないだろうか。茶わん一杯のご飯に、数粒の赤米が混じっているだけで、もう目くじらをたて、石ころでも混じっているかのよぅに感じる感性は、少なくとも農耕民族のものではないだろう。それと同じように「赤とんぼがいょうといまいと、そんなことはどうでもいい。どうして赤とんぼがいるほうがいいのか説明してほしい」と主張をする感性は、ひたすら田んぼを税をとりたてる場、税を生産する場としか見てこなかったこの国の「お上」の感覚に似ている。
 思えば未だに、田んぼの風景も、農村の景観も国の財産としては認知されてはいないのだ。赤米が美しいといったところで、評価する政策はないのだ。でも「お上」が評価しなくても、国民が評価すればいい。そうして「お上」の美意識、発想までも変えていくといった運動があればなおいい。

  
赤米の名残

 この国に稲作が渡ってきたときの稲は、赤米だと考えられている。やがて奈良時代以降、「白い米」に侵食されながらも、赤米は根強くつくられた (一時は「大唐米」というインド型の細長い赤米の品種が渡来して広がった時期もあった。この種類の米も戦前まで残っていた)。江戸時代でも、九州では薩摩藩で50%、佐賀藩でも30%は赤米で年貢が納められていた頃もあったのだ。(『日本赤米考』)。急速に赤米が姿を消していくのは明治時代になってからだが、そんなに簡単には消滅しなかった。明治国家の「白米化政策」がその目的を完全に達成するのは、1950年代まで待たなければならなかった。
 しかし、赤米の灯は完全に消えてしまったわけではなかった。この国の百姓(ここでは人民という当時の意味で使う)は、ふたつの抵抗をこころみた。ひとつは、「赤飯」として、赤米の精神を残してくれた。よく、赤米を食べた人が「味が、アズキご飯にそっくり」と言うが、あべこべだ。赤米によく似た味と色をもった「小豆」が代用に選ばれたのではないだろうか。それにしてもなぜ、そんなにまでして、赤いご飯を食べなければならなかったのだろうか。
 たぶんそれは、先祖が初めて米をつくったときの、驚きと感謝の気持ちを伝えるためだったにちがいない。それだけ米(当時は赤米)は限られたところにしかできなかったし、田んぼを開くためには莫大な労力がかかったからだ。はじめて米を食べたときの百姓の気持ちを想像することは意味がある(このことは日本人の赤トンボに対する感情とよく似ている。なぜなら、赤トンボもまた、この国に稲作が渡来したときから、大発生するようになり、百姓の感謝の対象になったからだ)。
 もう一つの百姓の志は、対馬、種子島、総社(岡山県)の神田に赤米を残してくれたということだ。赤米がいま脚光を浴びるのも、この三箇所の赤米があるからだ。全く姿を消していたら、たぶんぼくたちも赤米に注目することはなかっただろう。「火種」だけは残すということの大事さをつくづく感じる。

  
赤米の販売

 いま糸島地区では、22人の百姓が赤米を栽培している。面積は約7ヘクタール、生産量は20トンになる。日本で流通している赤米が200トンぐらいだから、約一割にあたる。まだまだ微々たる量だが、ここに来るまでには二人の百姓の努力があった。吉住公洋さん(二丈町吉井)夫婦は、500グラム、1キロの量でもいとわずに注文を取り、全国各地に送り続けてきた。それは米に乗せて、赤米のメッセージを全国に発信することでもあった。また同時に、彼のおかげでぼくたちは全国の情報を手に入れることができた。松崎治磨さん(二丈町松末)はグリーンコープ生協に個人としては大量の8トンを1993年から自主流通米として出荷し続けている。もっと食べてほしいのだが、正月前の注文だけで売り切れて、桃の節句や端午の節句(こどもの日)の企画分がまだ足りない状況だ。それでも8000人の組合員が食べている勘定になる。生協との取組みは、赤米を「特殊な米」にしないというぼくたちの方針を現実化させた。
 二人の特徴は栽培の研究と同時に、赤米の品種改良(選抜)も行ってきたことだ。福岡農総試の松江勇次研究員の指導で、ぼくたちは絶えていたモチ種の赤米の復活に成功したのだった。二丈町の赤米が消費をのばしている理由は、この「未来」と命名された独自な品種にある(松江さんたちは日本で初めて赤米モチ種「ちくし22号」を品種登録した)。

◎赤米の加工品

・米のまま利用    赤餅、赤飯、寿司、桜餅、おはぎ、赤米酒
・粉にして利用    饅頭、パン、ケーキ、ちまき、団子、クッキー、せんべい、かりんとう
・糠 を 利 用     カステラ、赤餅染色、やきもの
・穂 を 利 用     しめかぎり、切り花、ドライフラワー
・風物として     赤米田の風景、赤米の花見
           
G・CAT(ジ〜・キヤツト)は、代表の石井徳雄さんら若手の百姓7人が1987年に旗稼げした地域おこしグループだ(実はぼくも一員なのだ)。彼らは毎年九月になると赤米の「花見会」を盛大に開く。200人ほどの花見客は、陽が落ちるにつれ、逆光の中で燃え立ってくる赤米の穂波に驚嘆するのが常だ。そして赤米の過去や未来について語り合うのだ。さらに糸島地区の赤米栽培者22人によって「糸島赤米プロジェクト」が発足し、表にも示したが、様々な加工品の試作開発も進んできた。すでに市販されているものに、「赤米酒」「赤米大福」「赤米染め」などがある。赤米は不思議な魅力を持った米だ。手にした百姓も消費者も、いつの間にか赤米の物語を語るようになる。だから着実に広がっていく。


  *赤米を食べたい方は吉住公洋さん
        (092〜326〜5075)へ連絡して下さい。

  
赤米は未来の稲

 赤米は、現代に復活するだろうか。百姓が田んぼの片隅に赤米を植え、お祝いや記念の日に、お客が釆たときに食べるという文化は復活するだろうか。先年は中国の雲南省を10日ほど旅した。そこで「黒米」でもてなしてくれる農家に出合った。話を開くと、お客は赤米や黒米でもてなすしきたりだそうだ。また病気のときは赤米を食べさせるそうだ。早く元気になるからと言う。またお年寄りは長生きするからと、赤米を食べるそうだ。そういえば、赤米には「白い米」よりビタミンやミネラルが豊富に含まれているという栄養学者の分析もあるが、それよりももっと違うパワーが赤米には含まれているような気がする。同じ日に穂が出ても、赤米が熟れるのは白米に比べて10日以上も遅れる。早めに刈るとあの赤い色は出ない。最後の5日であの色が米に乗り移るような気がする。それだけ、お天道様のエネルギーを必要とする米なのかも知れない。
 地域、地域に多様な穀物が栽培され、稲でも多様な種類が栽培され、多様な食べ方がいきていた時代を決して忘れてはならない。国家のためではなく、消費者のためだけではなく、自分や地域のために田畑を耕し、そこにあった作物をつくる。そのことが文化を豊かにし、環境を守ることにもなるだろう。そのために稲作を楽しむ百姓の思想こそが、消費者や国を救うことになりはしないかと、予感する。